はくさん城跡めぐり デジタルスタンプラリー
5つの城跡周辺施設をめぐり景品をGETしよう!
白山市内には5つの城跡があります。その周辺にある協賛施設にQRコードを設置しました。各所でQRコードを読み込んで、その施設を利用すると、各城跡の缶バッジと特典がGETできます。
さらに、5ヶ所のスタンプを集めると、抽選で素敵なプレゼントが!
デジタルスタンプラリーの楽しみ方
スマホのカメラで各設置場所のQRコードを読み取ると、スタンプが自動的にたまります。どこからでも始められます。
◆QRコード設置場所
・二曲城(ふとげじょう)/鳥越一向一揆歴史館
・鳥越城(とりごえじょう)/道の駅一向一揆の里
・舟岡山城(ふなおかやまじょう)/善与門
・槻橋城(つきはしじょう)/加賀商会 色絵遊
・松任城(まっとうじょう)/千代女の里俳句館
◆各所の特典
・鳥越一向一揆歴史館/入館された方に、二曲城缶バッジと絵はがき1枚プレゼント
・道の駅一向一揆の里/①物販にてお買い物された方に、鳥越城缶バッジプレゼント ②ソフトクリーム(300円)お買い上げで、そばみつトッピング1名様無料
・善与門/①お食事またはお買い物された方に、舟岡山缶バッジプレゼント ②ソフトクリーム100円引き(1名様)
・加賀商会 色絵遊/①1,000円以上のお買い上げで槻橋城缶バッジプレゼント ②3,000円以上のお買い上げで、槻橋城缶バッジ+九谷焼の記念品プレゼント
・千代女の里俳句館/入館された方に松任城缶バッジと絵はがき1枚プレゼント
◆パーフェクト賞
スタンプを5つ集めて応募フォームから応募すると、抽選で「めぐみの白山ふるさと便」(12,000円相当)を5名様に、「完全制覇記念御城印」を100名様にプレゼント!
※当選の発表は賞品の発送をもって代えさせていただきます。
※「めぐみの白山ふるさと便」の抽選は毎年3月末に行い、7月・9月・12月の3回に分けて発送いたします。
鳥越城の支城「二曲城」
二曲城(ふとげじょう)は、大日川を挟んで鳥越城と向き合うように位置し、鳥越城跡附二曲城跡(とりごえじょうあとつけたりふとげじょうあと)として、国の史跡に指定されています。築城年代は定かではありませんが、本願寺一向一揆勢力の二曲右京進(ふとげうきょうのしん)の城と伝わります。「信長公記」には「府峠(ふとうげ)の城にて蜂起あり」という記述が見え、織田軍と戦う鳥越城の支城として機能していたと思われます。
発掘調査によって本丸から五の郭の郭跡における遺構が確認されており、馬蹄形を有する城跡とされています。
一向一揆最後の砦「鳥越城」
「一向一揆最後の砦」として名高い鳥越城(とりごえじょう)は、本願寺から派遣されたといわれる鈴木出羽守(でわのかみ)が織田信長軍の侵攻に備えて築城したと伝えられます。天正8年(1580)に織田軍の柴田勝家のはかりごとによって松任城に呼び出された出羽守が殺され、城も落城。その後2年間にわたって攻防が繰り広げられましたが、天正10年(1582)に鎮圧され、三百余人の本願寺門徒が磔(はりつけ)にされました。これによって「加賀は百年間、百姓の持ちたるような国」と称された加賀一向一揆が終焉しました。
本丸を中心に二の丸、三の丸が、空掘、腰郭で結ばれる連郭式城郭の遺構を有しており、現在は掘立柱建物跡、礎石建物跡、本丸門、桝形門、中の丸門、土塁、空掘、柵列等が復元整備されています。
戦国時代の土塁が残る「舟岡山城」
戦国時代末に造成された石垣と土塁が広範囲に残る城跡として貴重な舟岡山城(ふなおかやまじょう)。築城時期は不明ですが、15世紀後半には一向一揆の拠点の一つとなっていたようです。天正8年(1580)に織田軍の佐久間盛政が、一向一揆方の若林長門守を謀殺して城を奪取。天正11年(1583)に前田利家が金沢城に入ると、重臣の高畠定吉を城主として城を大改修しました。その後、高畠が慶長6年(1601)に隠居後、廃城となりました。
保存整備は行われていませんが、石垣の櫓跡や多門櫓跡等、戦国時代の遺構がそのまま現存しています。
かつての米蔵⁉「槻橋城」
槻橋城(つきはしじょう)は、室町時代に加賀国守護であった富樫政親(とがしまさちか)に仕えた槻橋兵庫守(つきはしひょうごのかみ)の山城跡です。槻橋氏は、加賀の一向一揆があった長享2年(1488)に、一揆勢に攻められ富樫政親とともに滅びました。その時の兵糧米と思われる炭化した米が城跡から出土したことから、ここに米蔵があったのではと伝承され、槻橋城の跡を「御蔵山(おくらやま)」と呼ぶようになりました。昭和29年(1954)まであった「蔵山村」は、このことに由来する村名です。今もこの辺りは蔵山地区と呼ばれています。
一揆の城から織田方の城へ「松任城」
平安時代末期にこの地を支配していた松任氏の館として建てられ、一向一揆の頃に城砦化が進みました。天正8年(1580)に織田軍の柴田勝家により落城。その後、織田方の城として城下町が整備され、前田利長が3年、丹羽長重が11年居城しました。松任4万石として栄えた城でしたが、慶長19年(1614)の一国一城令により廃城となりました。その後は加賀藩の蔵が建てられ幕末まで使用されました。
廃城後に写された「松任城古図」によると、本丸、二の丸、三の丸、出丸矢倉台、出丸などを備え、幅9~23mの水堀や、空堀、土塁により守られていたとされます。外堀の城域は、南北305m、東西301m余であったと推測されています。
現在、本丸跡は松任城址公園となっており、二ノ丸、三ノ丸、出丸跡には、松任文化会館、松任学習センター、千代女の里俳句館が建っています。